2016年11月30日水曜日

歴史学者と文学 『日本の歴史をよみなおす」を読んで

東京大学大学院医学系研究科人類生態学教室で行われていた「健康・環境・国際」をテーマにした読書会での発表を再録しました(2012/12/12)。
http://blog.livedoor.jp/humeco/


1980年前後に一世を風靡した網野善彦が1990年頃に行った講演集である。1980年前後はまだ反権力であることそれ自体が支持を得る時代であった。しかし、そういったイデオロギーによる評価は抜きにして、歴史学者の商売道具である文字をテーマとして中世の社会の転換期の意味を考えていく手法は謎解きのようにわくわくするものであった。

筆者によれば、片仮名、平仮名、漢字が日本の文学や歴史の中でどのような機能を果たし、いかなる意味を持ってきたのかさえ、十分に考察されていないという。「古文書がなぜどの地域のものでも読めるのか」という自らの経験を出発点にして、「漢字−公−表−建前−男性」と「平仮名−私−裏−本音−女性」の対比から、日本社会の特質を論じていく。

平易な講演ということもあって議論は2項対立を使って進めているものの、社会の変化はねじれながら進んでいてそんなに単純ではないことがわかる。そして律令制(文字の普及)と家父長制がずれながら確立されたことが、女流文学が中世に生まれそして途絶えた理由という仮説を提唱している。

文字という歴史学者にとっての商売道具に立脚してその部分はしっかり論理を積み重ねつつ、考古学、民俗学など過去を扱う学問領域にも目を向けて素人とことわりながら論理というより豊かな発想でもって仮説を提唱していく。筆者は従来の「常識」が間違いで「自説」が正しいことを確信していたようだが、私は正しさよりも読み手を刺激させるような発想と表現にむしろ惹かれた。

ここに書いてある議論自体は、新たな事実で最終的には否定されてしまうかもしれない。しかし、自分の武器を一つ持ちながら、近隣の分野にも目を広げて組み合わせれば、常識を覆すような発想が生まれる可能性を秘めていることに励まされた。筆者は文字に対する愛を持ちつつも文字のみに依拠する歴史学の限界をも感じていたのではないだろうか。


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